第29回広島文化賞受賞 田邊雅章さん 随筆のご紹介

2019.03.20 アーティスト

産業奨励館(原爆ドーム)のフカンⓒナック映像センター

今回は、2008(平成20)年に第29回広島文化賞を受賞された田邊雅章さんの随筆をご紹介します。
田邉さんは、ご自身の被爆体験をもとに、長年にわたって爆心地をCGにより復元する事業等に取り組まれています。



田 邊 雅 章
(爆心地復元プロジェクト代表)


 廣島(ひろしま)の歴史および伝統文化の伝承(実践)に取り組む。

 わが生家は原爆ドームの東隣りにあった。 時系列で言うと、藩政時代(江戸中期)に元安川の河畔、蔵屋敷が並ぶ一角へ屋敷を構え、幕末明治を経て、大正時代に河岸と我が家の間にあった空き地へ、県の物産陳列館(後に産業奨励館と改称)が建設された。現在、その残骸をさらす原爆ドームである。設計と建設指揮を担った、チェコの技師ヤン・レツルは、工事現場に隣接する我が家へ立ち寄って、祖父母から地域の伝統文化や生活風俗を聞き取り、西向きの建築構想などに反映させている。 完成記念にもらった、ボヘミアングラスのコップが座敷の違い棚に置かれていたが、惜しくも原爆で焼失した。

 歴史をさかのぼると、およそ四百年の昔、戦国時代の真っ只中、西日本の大々名「毛利(もうり)輝元(てるもと)」は、太田川の河口の地(広い島から“廣島”と命名)に平山城を築き、以来中国地方、西瀬戸内海一円、四国九州の一部を統治する、一大 “戦国文化圏” を形成させた。地勢風土においても、大陸との海路交易や温暖な気候にも恵まれ、その中核としての廣島は栄華発展を続け、領主は毛利から福島、福島から浅野へと変わったが、京都や大阪につながる文化圏として、西国の雄たる存在を示してきた。城下町の形成は築城の江戸時代初頭に始まり、徳川政権の影響下で次第に発展を続けた。 幕末から明治、大正、昭和へと時代が移り変わる中で、歴史と共に醸成された伝統文化は、地域へ着実に根付いた。 その一つに我が国古来の伝統芸能『能楽』がある。

 毛利時代、城下町の開府時には、いち早く廣島城大手門につながる地に、能楽にかかわる「猿楽(さるがく)町(ちょう)」や「細工(さいく)町(まち)」を開いて、能楽師や囃子方を住まわせ、能装束や楽器類の細工師を集合居住させた。 職能町の起こりでもある。 町づくりにおいては、京都を模して碁盤の目状に区画を整理した。徳川幕府が確立され、紀州から入府した浅野家では、徳川家が好んだ武家能(質実剛健な気風)の “喜多流” をお家流に定め、格別な保護とともに、式(しき)楽(がく)(公式行事に開催)としても重用した。


奨励館と古い町並みⓒナック映像センター

 わが遠祖も、浅野初代藩主の廣島入りに随行して、紀州(和歌山、田辺)から入府しており、猿楽町の起こり以来の居住をはじめ、能楽に深く関わっていたものと思われる。 原爆により家系図や過去帳が全て焼失したため、検証する術を失ったが、血流としては、祖父母が仕舞いや小鼓を嗜(たしな)んでいた。能楽といえば、子供の頃に過ごした猿楽町の家々から、謡曲や能の囃子が聞こえていた記憶がある。町筋に点在する商家、酒と醤油屋、和傘屋、旅館、証券金融業、医院などから、心地よい音曲が頻繁に聞き取れた。

 不毛で悲惨な大東亜戦争。 二十世紀における人類史上最悪の核兵器「原子爆弾」により、そのすべてが破壊され消滅した。 伝統ある猿楽町や細工町の街並みはおろか、今ではその町名すら残っていない。 原爆ドームだけが、変わり果てた姿となって、あの日の悲惨な出来事を伝えている。
 原爆により、大切な家族をはじめ生活環境のすべてを奪われ、悲惨で過酷な少年時代を強いられたが、何とか生き延び、自分にしかできない「爆心地復元事業」を、天命のライフワークとして取り組み、晩年の二十数年をかけて、記録映画6作品を完成させた。
 なかでもNY国連本部での公式上映(NPT関連事業)は、世界中から注目を浴びた。 その結果『ヒロシマの真実と原爆の実態』を広く海外へも伝え、それまでの表面的な被災情報から、再現映像(CG技術活用)を通じて、より具体的な実態の伝承に、成果を上げることができた。そこには普通の街があり、あの日も一般市民が、普段通リの生活をしていた。そこへ何の予告もなく、避難すらできない状況の中で、大量破壊兵器が投下された。 すさまじい核爆発の衝撃波、恐ろしい放射能を含んだ灼熱が襲い掛かり、地表での焼死は悲惨を極めた。 放射線障害は今なお続いている。 

 自分は、数日前から疎開をしており、奇跡的に難を逃れたが、二日後に爆心地へ戻り、直後の地獄の様相の中で家族を探し求めた。 大量の残留放射能を浴びた。 原爆の実態を、戦争の結果の残酷さを、身をもって体験している。 その結果、それまで不明とされていた「爆心地実態」の解明を、“一次情報” として成し遂げた。余人には不可能な仕事である。
人生の終焉を迎え、わがDNAの為せるワザか、あるいは宿命か “喜多流の謡曲” に強く惹かれて、遅まきながら習得稽古を重ねている。 地域を拠点に活動を展開する “大島家” を師として、残された日々を傾倒する(限りなき挑戦)所存である。由緒ある猿楽町に生を受け、その街で育ち、実体験を通じて良き時代の町や住人を知り尽くしている。 現在は、その片鱗さえ窺うことはできないが、在りし日の “街の記憶” は、わが脳裏から消え去ることはない。


奨励館と対岸の中島(現在の平和公園)ⓒナック映像センター

 原爆ドームを「平和の象徴」とする意向には疑問を覚えるが、廣島文化の殿堂の遺構、ヒロシマの証左(負の遺産)としての存在には意味がある。 被爆以前、堂々たる欧州建築の威容全貌や内部の詳細、周囲の街並みからは謡曲の声、笛や鼓の響き、失われた町の記憶は、原爆被災を超え、時を超えて、郷土の誇りとして、確実に伝承されなくてはならない。そんな思いから、猿楽町、細工町、産業奨励館、中島本町、爆心地1キロ以内の復元に取り組んだ。 その実態や成果は、拙著「ぼくの家はここにあった」「原爆が消した廣島」「少年Tのヒロシマ」、そして記録映画DVD版に詳しい。

 爆心地における被爆以前と直後を実体験で知る “最後の被爆者” として。 


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